昭和39年12月20日 夜の御理解
もう、る8年になりますかね、善導寺の親先生が、以前大坪の家の謝恩祭を、あのう奉仕させて頂いておりました、親先生がみえて、お祭り仕えておられて、それがただえておった、丁度8年になりましたですかね、今度で、あの8回目、おいでられるわけでございましょうが、もう8年前でした、これがあのおいでられますから、なにかと心使わせて頂き、おいでて頂きましたら、あのう。
私はあの時に、親先生の召し上がり物の、お茶碗類からはし類をお使いなされる一切を、新しく、もう親先生方夫妻が、みえてお使いなられる時のために、準備いたしました。そん時にあの、繁雄さんに相談しましてからあの、今度はどうでも一つあの、大臼をあげましょうじゃないか、お茶は、けれども、どうかその一通りしかございませんでしたからね、「これじゃあもうあんまりお粗末だからね。
まあお願いしておかげ頂かなん」って言うておりましたら、丁度、先生がおみえおられる、日までにね、抹茶茶碗が次々と集まってくるんですね、大臼の茶碗が、丁度五つぐらい集まりました。その中にですね、「松竹梅」っていうその、図柄のが集まったことですたい、ね、神様の働きには恐れ入るなぁ。あぁ松の印が付いておる、竹の印が付いておる、梅の印が付いておるという、うん「このことからでも、神様のご都合を分からせて頂くねと言うてまぁ、その時、まあ、以来、その、茶碗が残っております。
只今御神前に出らして頂きましたら、あの、「高橋定利」と、それから、ここに、お届けがあっとります、定員さんの中にですね、「まつお たきがはら」という定員が居ります、その、それを頂くですね、「高橋定利」「まつお たきがはら」ということを、それを頂いてから私は、どういう事だろっかと思ったら、今私が申しましたその、茶碗が、あの、三つ集まっ、松竹梅が集まった時の事を思わせて頂いて、「あぁ梅が欠けておるな」ということです。
これは高橋さんの、事だけじゃないですね、高橋さんのところんしても、ここに梅が欠けておるなということ、梅は信心辛抱とこう仰る、だから高橋定利というその、字からいうてもです、いわゆる、「高い橋」、「高度の御結界、お取次ぎの場。」ということでしょう、「定利。」というのは、そこんところのおかげを頂かせて頂いた、「定まった利。」ということ、ね、
神様が当然下さる事の出来るところの、おかげの道というのが、開けるのだと、おしいかな、まぁだここに一つ、う、梅の、辛抱が、欠けておるということをです、これは椛目的なそれに、私は感じたんです、これは高橋さんだけの事じゃない。もう一押しの辛抱が、お互い欠けておるんだということです。今御祈念前です、あぁ丁度繁雄さんもみえましたから、風邪ひいて具合が、頭が痛いんです。
だからちょっとかわっ、おうず、その前でしたが、今日伊万里の方から手紙が来ております、久保田、トシエさん、このごろ電話で、息子さんのなんか試験の事で、お届けがあっておった、そのことのお礼やらお願いやらが、また来てる訳なんですね、一次は通ったが、二次がどうぞおかげをどうぞよろしゅうお願いしますって、そこはけどもさぁ出来るか出けんか凡々の事でけあい分かりません。
もうそのことがです、心にかかり通しだと、こういう訳なんです。先日も、お百姓さんですから、田んぼに出らして頂きましてから、「金光様、私は凡夫で何にも分かりません、というて今度は息子は、なんとも言うて参りませんが、あ、その、おかげ頂くものでしょうか、おかげ頂きらんものでしょうか」というようなことを、祈り願わせて頂いた途端にです、大粒の雨がバァーっと降り出したっちいうん。
そん時に思うたっち「おかげ頂くなぁ」っていう風にまあ感じたとこういうのです。そしたら、それはもう本当の通り雨で、それその一うめ雨っとこう、雨がさった後にはです、もう今まで見たこともないような以上なまでのです、夕焼けを次に見せて頂いたと、これは実際の上にです、自然の働きと自分の信心と自分の心の状態と、自分があぁこう思っておることをこう、椛目的にはん判断された訳なんですね。
そういうあり方、そういうような信心は、椛目の方達はもう本当に、この方どうでしょうか、椛目に、さぁ、数でいうたら10回もお参りされたことがあるでしょうか、勿論、竹内先生のの所で、教導を受けて、椛目的な御理解を頂いておられますからです、そういうような、あぁ頂き方が出来られたわけなんですね、椛目で3年、5年と信心を続けておるほどしの人ならば、まあそういう意味合いに神様を身近に頂くことの、こつあいという様な信心は、分かっていきよるですね。
そしてここで頂いておるおかげというのがです、椛目にですねいわゆるその、おっお茶的な物一服的な物、そういう意味合いにおいては、松竹梅そろうたおかげを頂いておるという感じがいたします。ね。ところがです肝心要のですね、定まったいわゆるその高度のお取次ぎを頂いてです、そして当然頂けれるところの定まった利、利といものの、おかげをまだ頂いていないのは、辛抱の欠如であるということであります。
楽な方のおかげの、信心の松竹梅はそろうた、ですから、この前の月次祭の事で言うならね、鯛、鯛の方の、松竹梅はそろうた、伊勢海老の方の、言わば松竹梅はそろっていない、だからこれはもうその人の信心なりですから、だから、私の欠けておるものは辛抱だと、これは私をはじめ、私をはじめです、私に欠けておるものは辛抱だと、その辛抱というのは、もうピンからキリまで違うんです信心の、そのむ、向き向きによって、程度によって、信心性格によって。
ですから、文男さんなら文男さん、定利さんなら定利さん、山田さんなら山田さん、シゲオさんならシゲオさん、名々「はぁ自分のここん所の辛抱が出来よらんもんねぇ」と、それが山田さんなんかは、朝の御祈念に、ああして、忙しい中に参ってみえる、そういう意味合いの辛抱は出けとるばってん、ここのところの辛抱だけが、出けんもんね、と、分かるところがあろうと思うです、ね。どうぞ皆さんいわゆる「松」と「竹」はそろうた、そういう意味合いの信心も、けれどもここにもう一つ欠けておる物。
それは「梅」それ思うんです。こんな古賀先生なら古賀先生の場合でもそうなんです。はぁ古賀先生が「最近どうもその調子が出らない元気が出らん」とこういうとります、けれどもですそこに私は辛抱の徳を受けるための辛抱がです、成されていく時にね私はその一服的な意味合いでの松竹梅ではない、それも必要なんですよやはりけれども。
本当に神様が下さろうとしておるところの足ろうたおかげ、の頂けるために、おかげを頂いて松は出けた竹は出けた、ここに欠けておる物は辛抱だと一人一人がその辛抱のところに、ならシゲオさんならシゲオさんでもいいです、もうこれはもう一人一人がです、「はぁ私が辛抱せんならんところはここ」という名々違うのですからその辛抱に取り組んでです、その辛抱の成就のために、一つおかげを頂かなきゃならんと思うですね。
おかげを頂きますよう。